ヴィクトル・ユーゴーと「歴史的記念物」の認識

シャトーブリアンの物思い © Google

ヴィクトル・ユーゴーの挿絵 © Google

小説「ノートルダム・ド・パリ」 (ヴィクトル・ユーゴー作)(抜粋)

「ノートルダム・ド・パリ」 クロード・フロロー (抜粋)

「ノートルダム・ド・パリ」 エスメラルダ (抜粋)

ロマン主義運動の時代から歴史的モニュメントになるまで

ベンジャマン・ムートン (訳:河野俊行)

ロマン主義運動
ロマン主義は18世紀イギリス及びドイツで生まれ、王政復古期 (1814-1830) のフランスで発展した。ロマン主義は、古典の規則性や啓蒙主義 (18世紀の知的潮流) の哲学的合理主義を否定し、感情、親密さ、精神性、色彩、そして無限への願望に根差す。この運動は、文芸、思想家の役割、そして世界に対峙する人間の役割を、歴史を文学に取り入れ、「アカデミーが殺してしまったこの壮大な芸術」である中世のルーツを復活させることで、刷新したのである。「ロマン主義は、暗くて不穏な廃墟に囲まれた世界すなわちゴチック小説の世界を描いた。」シャトーブリアン、シャルル・ド・モンタランベールといった人たちが最初の代表的作家となった。

ノートルダム・ド・パリ
1831年、ヴィクトル・ユーゴーは『ノートルダム・ド・パリ』を発表した。この小説における大聖堂の描写は力強い。曰く、「このファサードほど美しい建築物はない」、「すべてが内包され、それ自体に由来し、論理的で、均整がとれている。」ギリシャ・ローマの古代に由来する古典的で冷たい芸術の規範を退け「労働者の人間性と彼が属する社会全体を表現する芸術。」「石の巨大な交響曲」、「個人と人民の壮大な作品」、「一個一個の石に、労働者の百通りもの想像力と芸術的才能によって付与された均整が見て取れる、或る時代の総力を結集してできた巨大作品」といった具合である。

この小説は大成功をおさめ、大聖堂や古いパリの様子を雄弁に物語ることで、中世のモニュメントに対する意識を喚起し社会に定着させた。こうしてゴシック建築は国民的建築となった。

歴史的モニュメント
革命当時、民衆の中には破壊行為に反発し、モニュメントの保存を支持する動きもあったが、モニュメントの意義についての理解は深まっていなかった。

つま先を測ることは巨人を測ることである」。ヴィクトル・ユーゴーは、今日の世代が大聖堂の建設者たちの天才と謙虚さから遺産として享受できるものを明らかにしている。彼らの栄誉は生ける者に寄り添い、誇りと国民連帯の論拠となる。

その時が来た.... 世界中から、新しいフランスに、旧いフランスを救済せよと求める声をついに挙げなければならない。あらゆる種類の冒涜、劣化、破壊は、古い国家の栄光が刻印され、また王たちの記憶と人民の伝統に結び付いた中世の素晴らしいモニュメントの、そのわずかな残存さえも同時に脅威にさらしているのだ。」(ヴィクトル・ユーゴー、「記念物破壊者を責む」1834年)

文化遺産は政治的にも有用なものとなった。1830年には歴史的記念物管理局が設立され、1837年には歴史的記念物委員会が、建造物の調査、建築家の任命、資金援助等を通して、歴史的記念物総監督官 (初代はリュドヴィック・ヴィテ、第二代はプロスぺル・メリメ) を補佐する体制が整った。

今日においても歴史的記念物管理局が、公共の利益の名のもとにフランスの文化遺産保護を担っている。

「ノートルダム・ド・パリ」 大聖堂を守るカジモド (抜粋)

「ノートルダム・ド・パリ」 チンピラの襲撃 (抜粋)

Prosper Mérimée, 歴史的記念物総監督官 © Google