国を象徴する大聖堂

Chapter 1  歴史の偉大な時間の中で

T第一次世界大戦末期のアルザス・ロレーヌ解放の祝賀会。ノートルダム大聖堂での勝利の「テ・デウム」。1918年11月17日、パリ。1918年11月18日(月)、エクセルシオール紙に掲載された写真。

ヤン・ポタン (訳:河野俊行)

1905年に制定された教会と国家の分離法により、ノートルダム大聖堂に関する責任も分離した。1862年に歴史的建造物に指定された建物は引き続き国家の所有物であり続けるが、フランス教会が典礼を担当する。1909年に行われたジャンヌ・ダルクの列福から2012-2013年に行われた大聖堂創建850周年記念式典まで、フランス教会は大聖堂を典礼儀式に用いてきた。他方、大聖堂は首都パリの中心部に位置するため、共和制である国家も「キリスト教的な君主制」のカトリック関連遺産を、必要に応じて活用することができる。

このような国家的側面は政治的取引の結果である。パリ大司教のアメット枢機卿は、1918年11月17日ノートルダム大聖堂で第一次世界大戦勝利のためのテ・デウムを企画し、国の最高幹部を招待したが、勝利の立役者とされるジョルジュ・クレマンソー首相は式典への参加を拒否した。一方、1929年にはフォッシュ元帥の葬儀が大聖堂で行われている。

その後も聖域としての大聖堂の世俗と宗教の仲介機能は失われなかった。1940年5月19日には、ポール・レイノー首相と数名の閣僚がノートルダム大聖堂で行われたミサに参加し、国に勝利をもたらすよう神に祈っている。またヴィシー政権末期の1944年5月21日、スアール枢機卿はノートルダム大聖堂「フランスと平和の女王」と称えている。

フランス革命以来、大聖堂を国有化したことの効果は未完成かつ未確定であったが、20世紀になってもそのような状況は継続している。パンテオンのような他の「世俗化された」聖域が、偉人の名誉を称える場として認識されず、また公的な葬儀を主宰したこともないのに対し、パリのノートルダム大聖堂は国家的な機能を果たしていた。また非公式には、シャルル・ド・ゴールからフランソワ・ミッテランまでのフランス大統領の葬儀 (遺体を別の場所に安置した場合も含む) が、国際的な舞台を設えて行われているが、これはパリ・ノートルダム大聖堂の特権である。国有化の効果は曖昧なままであるが、フランスの「世俗的な」聖地としての役割を強調せずとも、その知名度によって世界的なフランスの象徴となっている。宗教は常にあったが、文化遺産の管理においてはただ乗り的な存在であった。

Chapter 2  ノートルダムの鐘

火災後の、北鐘楼の鐘の一つ、マルセル。パリの第9代大司教、聖マルセルにちなんで名づけられた。 © C2RMF, Alexis Komenda, 2019.

ノートルダム大聖堂のマルセルの鐘を作る。ヴィルジニー・バセッティによるマルセルの再調査。© Vincent M, Mathieu Vincent, 2012.

パリ・ノートルダム大聖堂のモーリスの鐘の製造。ヴィルジニー・バセッティによる赤と白の蝋の彫刻。© Vincent M, Mathieu Vincent, 2012.

ガスパール・サラトコ、クララ・ドレットル、ドリアン・オードワン、ヴィアンヌ・ロシェ (訳:河野俊行)

火災が発生した日の夜、炎がノートルダム大聖堂の北塔に及んだとき、最大の関心事は鐘にあった。というのも鐘が落下すれば建物の構造全体にダメージを与える可能性があったからである。あの日以来、被災した北塔の8つの鐘は、宗教的祝日や市民の休日にも鳴らされることはない。鐘の音の記憶は、住民の感傷を引き起こす。だから彼らも鐘の沈黙を実感している。しかし鐘が鳴らないということは、これらの鐘が忘れ去られたということを意味しない。2013年の大聖堂850周年記念式典の記憶が蘇る。このとき、19世紀に鋳造された9つの鐘に換え、南塔の大鐘エマニュエル (17世紀鋳造) に合せて調律され、新たに鋳造された鐘が設置されたのだ。大勢の人々の喝采の中、パリに到着した新しい9つの鐘は、それぞれマリー、ガブリエル、アンヌ=ジュヌヴィエーブ、ドニ、マルセル、エチエンヌ、ブノワ=ジョセフ、モーリス、ジャン=マリーと命名された。またこの式典は、人に見せることを意図せずに作られた鐘に施された見事な装飾を鑑賞できる機会となった。運命が人々の情熱を純化することがあるが、そのような価値を大聖堂の鐘は象徴している。19世紀に鋳造された9つの鐘の撤去が発表されたとき、第二次世界大戦終結によるパリ解放を知らせるために打ち鳴らされたこれらの鐘が、破壊されたり売却されたりするのを防ぐために保存協会が結成された。実際この市民の鐘は、国民の重要な時間に合わせて鳴らされてきた。壮麗な鐘は、第一次世界大戦の終戦時には喜びを表現したし、死の鐘は、2015年に起きた新聞社「シャルリー・エブド」襲撃事件後に、その犠牲者を称えるかのように悲痛を告げた。そして火災後も、大聖堂南塔にあるノートルダム最大の大鐘エマニュエルは、国の主要イベントのために鳴り続けている。例えば、2019年9月29日にはジャック・シラク元大統領の葬儀に合せて打ち鳴らされ、また2020年4月15日には、火災1周年に合わせ、午後8時に再び鳴り響いた。大鐘エマニュエル鳴動の様子は民放テレビ局が撮影したが、この映像を独占的に配信するのではなく、再放送を希望するすべてのチャンネルに音と映像が提供された。このことは、ノートルダムの鐘とその音が全国民に届けられるべきこと、そしてその公共性の高さを示したといえよう。

Chapter 3  ゼロ地点

大聖堂前の広場にあるフランスの道路のゼロ地点は、観光客がポーズをとる象徴的な場所。© Jean-Pierre Bazard, 22 novembre 2009, Creative Commons.

シルヴィ・サグネス (訳:河野俊行)

フランスの道路距離の算出起点である「フランスの道路のゼロ地点」は、大聖堂の広場中央に設置された、八角形のブロンズ製バラ型コンパスで表わされている。このコンパスは4つの石からなる円形枠の中央にはめ込まれており、訪れた人は、足を乗せたり、指で触ったりして、その瞬間を写真に収めている。また井戸や噴水の前を通り過ぎる際にするように願いを込めてコインを置く人もいる。

この標識は、大聖堂が象徴的に担っている中心性と起源について、色々な考え方を想起させるようだ。しかし前世紀初頭、この地点を地上に標すべきだと運動する人たちがまだいた頃、その正確な位置については意見が分かれていたという。1912年以降、研究者の間では、古文書 (図面や特許状) や、目印となっていたが残念ながら失われた像や柱を証言する間接的な資料をもとに、議論が行われている。実際には、フランス革命以前の場所を支持する陣営と、物質的な痕跡は残っていないものの、1789年以降の境界標示の存在を主張する陣営の2つの見解の対立がある。わずか数十メートルの違いではあるが、この対立は、君主制と共和制という2つの正統性を反映している。これらの議論の根底にある不確実性がどうであれ、一つだけはっきりしていることは、フランスの大動脈の中心は、ノートルダム大聖堂の影が落ちる場所以外にはあり得ないということだ。1924年、セーヌ県知事は、すべての人の合意を得るために、主要な仮説の結果得られた地点から等距離の地点に、ゼロ地点を置くことを決定した。この決定は、ブロンズ舗装が交通の妨げになることを心配していたパリ市議会を大いに満足させたのだった。

Chapter 4  フランス全土からの木材

ノートルダム大聖堂のためのオーク材の切り出し@フランス、シェール県ブリノン・シュル・ソルドル © Véronique Dassié、2021年4月13日。

記念撮影をする提供者、フランス・ロワレ県ラ・ブシエール市。© Véronique Dassié, 9 avril 2021.

製材所に送られるのを待つ丸太に付けられたノートルダム大聖堂タグ (フランス、ロワレ県ラ・ブシエール市)。© Véronique Dassié, 9 avril 2021.

パリ・ノートルダム大聖堂の尖塔、トランセプトの小屋組み、および隣接ベイの修復に使用されるオーク材の地域分布。© Établissement public chargé de la conservation et de la restauration de la cathédrale Notre-Dame de Paris, 2021.

ヴェロニク・ダシエ、クロディ・ヴォワスナ (訳:河野俊行)

この火災で、「森」と呼ばれる大聖堂の屋根、および尖塔の小屋組みが煙に包まれた。直ちに、木材の専門家は、フランスの森にはその代わりとなる木がすべてあると説明した。しばらくの間、同じ建物を復元するかどうかの議論が続き、他にも、木枠を金属やコンクリートの構造物に置き換えた修復例が紹介された。マスコミでは、樹齢数百年のオークの大量伐採に抗議する声が聞かれたものの、火災前と同様に復元されることへの期待が大きく広がった。

2020年7月、マクロン大統領は、木造による同一の復元を承認した。専門家の提案により象徴的な決定がなされた。それは、大聖堂の国家的な意義を示すために、屋根を組み上げるオーク材は、各地域の状況に応じて割合を変えながら、フランス全県から調達しなければならないというものだった。そこで、国有林や市有林を管理する国立森林局や個人の所有者を探して、大規模な募「木」活動が展開された。木はすべて無償で提供された。

数ヶ月のうちに、尖塔とトランセプト (袖廊) の小屋組み、隣接するスパンの再建に必要な1,000本のオークの木が見つかった。その半分は公有林-32の国有林と70の共同体林から、残り半分は150近い私有林から調達された。尖塔を復元するための品質基準は、長さ20メートル、完全に真っ直ぐで欠陥のない木でなければならないが、ヴォールトの復元にはそれよりも小さい寸法のものも使用できる。フランスで伐採される木はすべて、持続可能な開発の原則に基づいて管理された森林からのものでなければならず、ノートルダム大聖堂のために提供される木は、火災に関係なくいずれ伐採されたであろうから、特別な木が例外的に伐採されるという考えはさほどあたらない。

2021年3月に行われた伐採作業を取材した地方メディアは、自分のオークが「ノートルダム大聖堂に行く」のを見たコミューンや所有者の誇りを報じ、それぞれがこの作業の特別性を強調している。伐採前に祝福を受ける木や、オークの行き先を示すプレートを切り株に設置することを計画しているコミューンもあり、伐採後の木屑は所有者の家族が大切に保管しているなど、それぞれがこのオペレーションの例外性、特別性を強調した。