不変性と変容

グスクから王府へ

冊封使行列図 (部分) © 沖縄県立博物館・美術館提供

1350        察度王統が立つ。
このころまでに、各地を割拠していた按司 (有力者) の勢力が、中山、山北、山南の三つにまとまる。
1372        冊封・朝貢体制の始まり。
一説によれば、このころ首里城が造営され、中山の王都が浦添から遷されたとされる (遷都は尚巴志によるとする説もあり)。
1406 尚巴志が察度を継いだ武寧を滅ぼし、父思紹を中山王とする。
第一尚氏王統のはじまり。
1427 安国山樹花木記碑の建立。
碑文には、首里城の外苑として龍潭を掘り、その土を盛って安国山 (現城西小学校一帯) を築造し花木を植えたとあり、遅くともこのときまでに首里城が造営され、王都にふさわしく整備されていったことを示唆している。
1429 琉球王国の始まり
尚巴志が三山を統一し、首里城を王府とする。

繰り返された再建と修理

1450        琉球に漂着した朝鮮人万年らによると、正殿は三層であり、殿上に坐す国王に対して正装した群臣が御庭から拝していたという。

1453 志魯・布理の乱により正殿焼失。記録はないが1456年までに再建か。
第五代国王の世子と王弟が王位をめぐって王府を二分した内乱。両者とも落命。
1454 尚泰久が即位。
このころ臨済宗の禅僧芥隠承琥が来琉。多くの寺院が建立される。芥隠承琥は尚真王の代まで仕える。
1456 琉球に漂着した朝鮮人梁成および 1460年に漂着した肖得成らによると、正殿は三層で朱に塗られ、屋根は板葺きで錫の装飾があり、王は中層に居たという。
1458 万国津梁の鐘を鋳造し、正殿に掛ける。
梵鐘は沖縄戦にも焼け残り、現在は沖縄県立博物館に収蔵されている。
護佐丸・阿麻和利の乱により、有力按司が滅亡。
1466 奄美諸島を支配下に置く
1470 尚円が即位。第二尚氏王統のはじまり。
1477 尚真が即位。1527年までの在位中に中央集権を強化し、地方行政区画を整備する。
各地に割拠する按司を首里に集居させ、職制・位階制を定める。
1494 円覚寺創建
1500 アカハチ・ホンガワラの乱。以後、王府による宮古・八重山の本格的支配。
1501 玉陵造営
1508 正殿正面に中国産輝緑岩を用いて欄干を造営。
中国の宮室制度に習って設置されたことが欄干之銘に刻まれている。中国産輝緑岩の龍柱もこのころ創建。この龍柱のものとされる残欠が琉球大学博物館に収蔵されている。
  尚真王期 (1477‐1527)・尚清王期 (1527-1555) に外郭 (北~東南) を増築し、北殿、守礼門、歓会門、久慶門、継世門を創建。現在の首里城に近い姿となる。
1534 冊封使陳侃により、正殿は西面し、南面七間・西面七間と記録されている。
1609 島津侵攻
これ以後、琉球王国は薩摩の支配を受けながらも存続し、明そして清との朝貢・冊封関係を維持する。
  1621 南殿創建か

1660 失火により正殿全焼。王府は城外に移転。
1667 龍柱をニービヌフニ (細粒砂岩) で再建。
この龍柱のものとされる残欠が沖縄県立博物館に収蔵されている。
1671 羽地朝秀 (向象賢) による再建工事竣工。
この再建で、正殿は板葺きから瓦葺とされる。「向姓系図家譜」の記事が、この再建の様子を伝える。正殿のほか、多くの御殿や門が再建・修復された。
1682 正殿重修工事。正殿屋根に五彩龍頭棟飾を載せる。
1683 冊封使汪楫により、正殿は西面し、各面はすべて七間であると記録されている。

 

首里城正殿前城元仲秋宴設営絵図 © 沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所属 鎌倉芳太郎撮影

首里城正殿前城元設営絵図 © 沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所属 鎌倉芳太郎撮影

   
1709 失火により正殿全焼。
1712 再建工事着工、1715年竣工。
正殿向拝に唐破風がつく (1713年「琉球国由来記」に「唐破風」とあり)。このときの唐破風は一間幅か。正殿のほか、多くの御殿や門が再建・修復された。この工事のため、薩摩から 1万9525本の用材が調達された。この時、石高欄も再建された。沖縄戦で焼失したのは、この時再建され、その後の重修工事を経た正殿であると考えられている。
龍柱をニービヌフニ (細粒砂岩) で再建。この龍柱のものとされる残欠が沖縄県立博物館および琉球大学博物館に収蔵されている。戦災で破壊されたのはこの龍柱とされている。
1713 毛文哲と蔡温による首里城等の風水検分
1719 冊封使徐葆光の来琉
徐葆光による「中山伝信録」に、正殿は九間であると記す。絵図に唐破風が描かれている。
 

中山伝信録より 中山王府仲秋宴図 © 那覇市歴史博物館提供

   
1728 蔡温が三司官 (宰相) に就任。
国政改革を進めるとともに、首里城内における祭祀・儀礼の改革も行う。
1729 正殿重修工事。
「球陽」に、御差床 (玉座) を正殿中央に改設するとの記述。正殿の美称を唐破風から唐玻豊に改める。
  1736   北殿改修工事
1756 冊封使周煌の来琉
周煌による「琉球国史略」に、正殿は九間で、左右に狭室がつくと記す。この平面形式は、1768年工事時の記録 (寸法記) と一致。
1768 正殿重修工事 (解体修理)
 

正殿の造作を示す絵図 (寸法記) © 沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所属 鎌倉芳太郎撮影

 
  この工事記録として、「百浦添御殿普請付御絵図幷御材木寸法記 (寸法記)」が現存 (県立芸大所蔵鎌倉資料の一部)。これによると、平面形式は、正面九間・側面七間、両側左右にやや狭い一間を加える。正面中央に五間幅の庇が張り出し、さらに唐破風のつく向拝が三間幅で張り出す。
この年の大地震で城壁の一部が崩れる。
  1806   廣福門改修工事
1811 正殿重修工事
1839 「図帳勢頭方」の写本が作成される
1846 正殿重修工事 (解体工事)
この工事の記録として、「百浦添御殿御普請日記」「百浦添御普請日記」「百浦添御普請日記・当方」「百浦添御普請絵図帳」が現存 (那覇市歴史博物館所蔵尚家文書の一部)
  1851   城門の扉補強と城壁目地に石灰塗 (異人滞在のため防備増強)
  1858 歓会門解体修理
1866 冊封使来琉。「冠船之時御座構之図」「冠船之時御道具之図」が作成される。
 

1877年フランス海軍巡洋艦船の琉球寄港に際しルヴェルトガ少尉により撮影。現在確認される最古の写真。Temple dans la cour du palais de l'Ô-Sama 「首里城正殿」© 原版所蔵者 Hervé Bernard, France

明治日本での荒廃と昭和大修理

1879        琉球処分
明治新政府は、琉球王国を廃し、沖縄県を設置
首里城明け渡し。以降、荒廃が進む
1879 熊本鎮台沖縄分遣隊が首里城に駐屯、正殿は兵舎に使用される。
 

沖縄県琉球国首里旧城之図 (部分) © 沖縄県立博物館・美術館提供
歓会門に熊本鎮台表札が見える

 
1896 分遣隊の沖縄派遣終了。大龍柱を持ち帰ろうと切断。
この後、沖縄県師範学校、首里区立工業徒弟学校、首里区立女子工芸学校、首里尋常高等小学校などの校舎として利用される。
 

© 沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所蔵 鎌倉芳太郎撮影 二階に織機が置かれているのが見える

   
1909 首里城建物と敷地が首里区に払下げとなる。
1910 内務省神社局の要請により、正殿を解体した跡地に沖縄県社を創建する案を、沖縄県庁が計画。その後、災害や天皇の崩御、敷地や祭神の検討などの理由で創建案は四度にわたって改案される。
1911 地震により正殿に被害。
1921 鎌倉芳太郎が安里の沖縄県女子師範学校・沖縄県立高等女学校に図画教師として二年間の任期で赴任。
1923 内務省が県社創建案を許可。首里市会が正殿の取り壊しを議決。
1924 3月に正殿の解体作業始まる。
新聞記事でこのことを知った鎌倉芳太郎の知らせで、古社寺保存の権威であった伊藤忠太が内務省に取り壊し中止を要請。解体は撤回される。
1924 –
1927
鎌倉芳太郎が啓明会の研究補助金を得て、琉球芸術調査を実施。
1925 正殿を古社寺保存法 (1897-1929) により「沖縄神社拝殿」として特別保護建造物に認定
1928 沖縄神社拝殿 (正殿) 修理工事着手か。
1929 国宝保存法 (1929-1950) 施行により沖縄神社拝殿が国宝に指定
1930 暴風により正殿に被害。屋根瓦崩落。
文部技師柳田菊造が、修理工事監督のため赴任。
文部省宗教局阪谷良之進が正殿修理工事を視察、ならびに国宝候補物件選定のための調査。
 
 

沖縄神社拝殿破損写真 (阪谷良之進による書き込み) ©「戦前の沖縄奄美写真帳」沖縄県立図書館所蔵 CC BY 4.0
https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja

 
  1933   歓会門、瑞泉門、白銀門、守礼門の国宝指定
1933 沖縄神社拝殿修理工事竣工
この工事で「国宝建造物沖縄神社拝殿図」が作成される。
  1936   守礼門修理工事 (森政三・仲座久雄)

鉄の暴風

『(1945年5月) 29日午前9時ごろ、第5連隊第3大隊は首里高地に攻め込んだ。(中略) その夜、首里城付近に壕を掘って休むわれわれの心は、達成感に満ちていた。首里を制圧するという戦略が作戦を遂行するうえでいかに重要か、誰もが知り抜いていたからだ。今は廃墟と化しているけれど、アメリカ軍の絶え間ない砲撃に破壊されるまでは、首里城の周辺が風光明媚な土地だったことはうかがい知れた。城そのものは惨憺たるありさまで、元の外観はほとんど想像もつかない。辛うじてわかるのは古い石造りの建物だったということ、それにテラスや庭園らしきものと外堀に囲まれているということだけだ。瓦礫のあいだをぬって歩きながら、私は石畳や石造物、黒焦げになった木の幹を見つめた。以前はさぞ美しかっただろうに、と思わずにはいられなかった。』《「ペリリュー・沖縄戦記」ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫 415-416頁
 

首里城の廃墟と瓦礫 © 沖縄県公文書館所蔵「写真が語る沖縄」より

 
1944        3月15日、第32軍が編成される。
城内にあった国民学校校舎の一部を第9師団が兵舎に使用
10月10日空襲により那覇が焦土と化す
1945 3月、首里城地下の第32軍司令部壕が完成
4月1日、連合国軍が沖縄本島に上陸
戦火により正殿焼失。4月18日焼失の証言あるも、焼失日は不明とされる
5月27日、司令部は首里城地下の壕を放棄し南部へ撤退
6月23日、牛島満司令官ら摩文仁の壕で自決。組織的戦闘は終結するが、「自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ」との命令により、多くの沖縄住民を巻き込んだ持久戦がさらに続いた。

復元のはじまり

 

沖縄本島の米軍収容所の人々 © 沖縄県公文書館「写真が語る沖縄」より

 
1945        4月の沖縄上陸と同時に、ミニッツ布告 (米国海軍軍政府布告第1号) が公布される。
これにより、南西諸島地域における日本の施政権停止を宣言。米国軍政府による占領統治のはじまり。
1948 連合軍最高司令部琉球局長が首里城跡地を視察。大学設立が提案される。
1950 首里城跡に琉球大学開学。6学部562名の学生と44名の職員で始まる。
正殿地区は主に駐車場として使用。
 

琉球大学建設工事風景 © 那覇市歴史博物館提供

   
1951 サンフランシスコ平和条約締結により日本の占領が終結。
南西諸島地域は引き続き占領下におかれる。
1955 琉球政府が首里城跡を史跡に指定。
  1958   守礼門復元工事竣工
1966 琉球大学が琉球政府の所管となる。
1970 琉球政府文化財保護委員会による復元計画策定。
1972 「50年前の沖縄 — 写真でみる失われた文化財」が沖縄と東京で開催される。
鎌倉芳太郎が1924-1927年の琉球芸術調査で撮影した約400点の写真を展示。
1972 5月、沖縄の本土復帰
第一次沖縄振興開発計画の策定。戦災文化財の復元推進を明記。
首里城跡を国の史跡に指定。沖縄県教育委員会が城郭等復元整備事業を実施。以後、復元整備は毎年度実施され、2001年にすべての城壁復元が完了する。
1973 首里城復元期成会結成。屋良朝苗沖縄県知事を初代会長とする。
  1974   歓会門復元工事竣工
1982 第二次沖縄振興開発計画に、首里城跡一帯の整備の検討が提言される。
  1983   久慶門復元工事竣工
 

復元された久慶門と城壁 © Junko Mukai

   
1984 琉球大学が現在地に移転完了。
沖縄県土木建築部が首里城公園基本計画を策定。この中で首里杜構想を示す。
自民党沖縄戦災文化財復元等に関する小委員会が、国営公園としての整備構想を発表。これにより、文化財行政と別枠の予算での実施が可能になる。
首里城復元に向けて、資料収集や文献研究がはじまる。
1985 政府予算案に首里城正殿等基礎調査費が計上される。
沖縄県教育庁文化財課が、首里城跡正殿地区の発掘調査を実施 (~1986)
1986 県立芸大の開学を受け、鎌倉資料が寄贈される。
国営沖縄記念公園首里城地区として整備することを11月に閣議決定。
沖縄の復帰を記念する事業の一環として、首里城跡地約4ヘクタールを整備することとされる。正殿の整備は、沖縄総合事務局国営沖縄記念公園事務所の所管、国営公園区域内の正殿を除く建物と御庭の整備は、住宅都市整備公団 (現都市再生機構) の所管とされた。
国営公園外の首里城公園区域は、県営公園として整備することを決定。
1987 国営公園区域 4.7ヘクタールを含む首里城公園区域 17.8ヘクタールを都市計画決定
1989 正殿の起工式
1992 正殿復元工事竣工
奉神門・南殿・番所・北殿・瑞泉門・漏刻門・廣福門の復元工事の竣工、城壁修理の完了。首里城公園開園。
 

1992年開園当時の首里城公園 © 那覇市歴史博物館提供

   
1995 尚家文書が尚裕氏より那覇市へ寄贈される。翌年、美術工芸品も寄贈。
  1996 東のアザナ石積み復元
  1997 首里杜御嶽復元
  1998   継世門復元
2000 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の世界遺産登録
九州沖縄サミットで、首里城北殿が晩餐会場として使用される
  2000 二階御殿・系図座・用物座・供屋・右掖門・日影台復元
  2003   京の内供用開始
2006 琉球国王尚家関係資料が国宝指定される。
これら美術工芸資料および文書は、指定の翌月開館した那覇市歴史博物館に所蔵される。
  2007 書院・鎖の間復元
  2010 淑順門復元
  2013 守礼門修理工事完了
  2014 近習詰所・黄金御殿・寄満・奥書院復元
  2016 世誇殿・女官居室・銭蔵復元
  2018 御内原城壁復元
  2019   2月、全園開園
2019 10月31日、正殿全焼失。北殿、南殿を含む隣接建物6棟も全焼。