不変性と変容

王府時代の正殿を目指して

1986年、沖縄開発庁主催で発足した首里城正殿基本設計委員会により、「正殿は創建時から沖縄戦で焼失するまで、いろいろな形態、規模など変遷してきたが、復元するにあたっては関係資料を充分に検討しつつ、1712年に再建され1925年に国宝指定された正殿の復元を原則とする」という方針が決定された。そして、発掘調査や資料調査が進められ、これらの調査結果に基づいて計画された復元案は、首里城正殿設計委員会において、さらに学術的な検証が加えられた。

首里城跡正殿地区発掘調査:

I~VII期基壇重ね図「首里城跡_正殿地区発掘調査報告書」23ページ (沖縄県立埋蔵文化財センター2016年3月)

正殿の拡張を示す基壇遺構 © 沖縄県立埋蔵文化財センター所蔵

正殿地区の発掘調査は昭和60・61年度 (1985~1987年) に実施され、その翌年から平成3年 (1991年) まで、資料整理と報告書作成が行われた。この発掘調査により、正殿の正確な位置と地盤高さが確認された。出土した正殿西面の6列の基壇は、これまで古文書の記述でのみ知られていた焼失・再建の歴史を、実際に裏付けるものである。出土基壇の観察や基壇周辺の出土遺物の年代、また、重修工事の記録や正殿の大きさなどに関する文献の記述などから、各基壇の年代を同定することが試みられた。しかし、各基壇の年代については、研究者の間でも見解が分かれている。

出土した建築部材からも復元のための情報が得られた。例えば、異なる時期の基壇周辺から出土した大和系瓦や明朝系瓦の類型、さらには瓦の出土のない基壇の存在から、正殿の屋根葺き材の変遷が考察された。また、欄干・礎石・礎盤など石製品の出土品は、彫刻物の復元の参考とされた。その他、中国・タイ・ベトナム・朝鮮・日本・沖縄各地で生産された陶磁器類、塼、銭貨、煙管、玉類、円盤状製品、金属 (梵鐘破片・調度品や建物の部品・武具武器・鉄釘など)・骨・土・ガラス製品、動物遺体など多様な出土品は、かつての王府での儀礼や祭祀、暮らしの一端を物語る。

関連資料の収集と調査:

首里城復元のための設計が始まった当初に確認されていた資料は、文化庁が所蔵する、1930年代の沖縄神社拝殿修理工事で作成された平面図、立面図、断面図などに限られており、内部間仕切りや造作、色彩など、王府として使われていたころのようすがわかる資料が決定的に不足していた。琉球処分から100年余りを経て、琉球の時代の記憶は断絶し、多くの貴重な関係資料は沖縄戦や東京大空襲で失われていた。しかし、さまざまな幸運も重なって、県立芸大に寄贈されて間もない鎌倉芳太郎の調査資料の中から「寸法記」が見出され、次いで東京の尚家が厳重に保管してきた「尚家文書」が入手された。最後の琉球国王であった尚泰候の実録 (伝記) 編集主任となった東恩納寛淳が、王家の文書の一部を1910年に中城御殿から東京屋敷に運ばせていたために、戦火を逃れたものである。これ以外の王府の記録のうち、琉球処分で明治政府が接収した文書は関東大震災で失われ、中城御殿に遺された文書は沖縄戦で焼失した。

この二つの資料には、それぞれ1768年と1846年の正殿重修工事の詳細な記録が含まれていた。そして、さらにさまざまな古文書が分析され、写真が収集され、詳細な情報が集められた。また、これら文献資料に指示されている細部意匠の彩色や文様、技法の具体的な手掛かりを得るため、鹿児島や京都の社寺、および中国福州・泉州・北京と韓国の建造物などの調査が実施された。さらには、首里の古老などからの聞き取り調査も行われ、屋根や外装の色などが慎重に決定されていった。

首里城正殿設計委員会の設置:

1986年、学術的検証に基づく復元を目指して、建築、歴史、考古、彫刻、造園などの専門家を集め、首里城正殿設計委員会が設置された。委員会は、年3回開催することとされ、基本設計・予備設計・実施設計の各段階における理念、方針、技術検討、設計計画、細部仕様などを決定することとされた。

委員会は、三好勝彦 (公園財団理事)、稲垣栄三 (明治大学教授)、金多潔 (京都大学教授)、鈴木嘉吉 (奈良文化財研究所所長)、高良倉吉 (浦添市立図書館館長)、嵩元政秀 (沖縄考古学会会長)、西村貞雄 (琉球大学教授)、平野侃三 (東京農業大学教授)、又吉真三 (沖縄県文化財保護審議会長) で構成された。(所属はいずれも当時)

委員会の下には、4つの専門部会を設けて、具体的な技術的課題が検討された。4つの部会と部会長は次の通り。木造部会:鈴木嘉吉 (前述)、瓦類部会:伊原恵司 (東京文化財研究所修復技術部長)、彩色部会:稲垣栄三 (前述)、彫刻部会:田邊三郎 (武蔵野美術大学教授) が設置された。